勝負の結果は4種類
2016年11月29日 (火) | 編集 |
勝負は、その名のごとく勝ちか負けかです。しかし、指導者はもう少し細かく勝負を分類します。

勝ちにも次につながる勝ちとつながらない勝ちがある。負けも同様で次につながる負けとつながらない負けがあります。つまり、勝負は、4種類あるのです。さらに引き分けを入れれば6種類ですね。

次につながれば、勝っても負けても褒められます。次につながらなければ勝っても負けても叱られます。
優勝しても叱られることがあります。1回戦で負けても褒められることがあります。

いわゆる、目先の小さな勝利なのか、将来の大きな勝利なのか?指導者は今の結果ではなく、将来の展開までも含めた、点ではなく線で生徒を見ています。

その線は、現在から未来へと続くだけでなく、過去から現在まで伸び、そして未来まで続くものです。その日の試合内容だけではなく、試合の日まで費やした努力も当然評価に入っています。

選手も保護者も指導者も、勝てばうれしいし、負ければ悔しいです。でも、その感情を抑えてでも、褒めるべき時は褒めるべきであり、叱るべき時は𠮟るべきです。

 指導者の評価
2016年11月28日 (月) | 編集 |
急に成績が良くなってきたり、徐々に成績が落ち込んできたり、選手として空手をやっていると、こんなことはどこの道場でもあります。

指導者たちが集まると、「あの子は最近、○○ですね。」「ちょっと、○○だなぁ・・・」とやはり自分たちの生徒の話題が多くなります。指導者は、人が好きな人種なので、集まると自然に人の話になるのですね。

保護者は、勝てば良い、負ければダメと単純な評価をする傾向にありますが、指導者の見方は勝ってもダメな勝ち方、負けても良い負け方があり、勝敗が評価の高低に比例することはありません。

昨日の大会後も、高校の先生方が生徒のどこを見て評価するかを話しました。まず、挨拶ができない子は話になりません。残念ながら、何度言ってもできない子がいます。道場の保護者が「おはようございます」と言っても、親は「おはようございます」と返すのに、子供はまったく無表情で何も言わない。
大きな声で明るく、「おはようございます!」と誰にでも言えたら、誰でもうちに来てほしいと思うでしょう。

また、中学生で後輩たちの面倒をよく見る生徒は、やはりその行動が試合内容に出ます。気配りが習慣になっていますから、試合でも相手の動きをよく把握しているのです。

みんな勝ちたいのは、一緒です。でも、そんなに勝ちたいならば、勝つだけの努力と工夫ができているでしょうか?毎回同じ負け方をしている選手が、ただ必死に練習しても絶対に勝つことはできません。指導者は、どうすれば勝つことができるかを必ず細かに指導しています。なぜ負けたのかを教え、どうすれば次に勝てるのかを教えています。あとは選手がそれを理解してやるかやらないかです。
同じ負け方をしている選手は、どこまでも自分流に徹し何年間も同じ負けを繰り返しています。見かけはどんなに速く動いて素晴らしい技を持っていても、指導者から見るとそういう選手には何の魅力も感じません。

昨日、私はある選手の試合を観ていて、大きな魅力を感じました。遠くで観ていたので、どこの道場かも誰かもわかりませんでした。どこに魅力を感じたのかというと、「やめ!」がかかった後、開始線に戻る「間」がとても良かったのです。指導者はそれだけで選手の潜在能力がわかります。その選手は、1-0でリードしていましたが1-1に追いつかれました。すると、すかさず攻めてまたすぐに2‐1とリードし、その試合に勝ちました。
追いつかれたらまたすぐに引き離す。この素晴らしい内容が、その前の「やめ!」の後に開始線の戻り方に出ていたのです。結果論で言っているわけではありません。その時にある方にそれを伝えていましたから、「良い戻り方をしていますよ。ああいう選手は物事に動じない性格です。」といった直後の点の取り合いでした。

良い指導者ほど、試合の時の技や動きではなく、人間性を見ているのです。だから、日々の挨拶や返事ができない生徒は、そういう些細なところでぼろを出すし、それができている生徒は、逆に試合の結果にかかわらず高評価を受けるのです。

また、子供の本質は親の知らないところにあります。親が来ると急に良い子になる場合もあれば、親が来ると急に甘え始めてダメになる子もいます。
まさか、自分の子が挨拶もできない子だとか、雰囲気を乱している子だとは思っていないでしょう。

私の道場は、親が何でもかんでも面倒を見ることを禁じています。先輩が後輩の面倒を見なければなりません。どうも最近はまったくそれができていないようです。
面倒を見れない先輩は、本戦が同点の時の判定で、試合自体は押しているにも関わらず、判定負けになることが驚くほど多いのです。
周囲に気を配る余裕のなさを審判に見られているのです。自分本位の戦い方、いわゆる独り相撲を取っている姿が審判にマイナスイメージを与えているのです。
審判をやってみればわかります。攻めた数が多いから判定勝ちではないのです。前に出ていたから判定勝ちではないのです。心の余裕はどちらにあったのか?しっかりと相手に合わせて技を出していたのか?判定とは、人間性の勝負でもあるのです。

10月のWKF世界大会では、日本代表選手たちは判定になるとことごとく勝利していました。金メダルを獲得した植草選手など、相手の方が前に出ていたし、手数も多かったのですが、判定勝ちをしました。心の余裕があったからです。攻められていたのではなく攻めさせていたからです。

では、判定勝ちをしたければ何に気をつければ良いのか?
同じ道場の生徒が試合をしてるのに、まったく応援せず、試合を観てもいない生徒。自分の試合が終わったら生徒たちと一緒に行動せず、親の隣にずっと座っている生徒。自分の試合が終わったら、席にさっさと戻り、携帯をずっといじっている生徒。
先輩にも関わらず、後輩の面倒を見ない生徒。
こういうところが、本当に不思議なのですが、判定の結果に出てしまうのです。

ですから、再三にわたりそこを指摘しているのですが、やはりできる子は初めからできているができない子はまったくできない。自分を変えようとしないからです。
昨日も保護者に言いました。「努力をしない。自分のやり方を改めない。でも、日本一になりたいです。」というのは、「週休5日ほしいです。上司の指示には従いたくありません。でも、月給は100万円下さい。」と言っているのと同じです。

無理なことを平気で期待しているのです。

誰でも、頂点を目指す権利はあるし、可能性も誰にでもあります。でも、行動をしない人間にはその権利もなければ可能性もありません。
親は、その点だけしっかりと教育してもらえば良いのではないでしょうか?技術は後からいつでも向上させることはできます。でも、挨拶や返事、他者への気配りは長い時間をかけて習慣づけるしかないのです。

指導者は、大会中は審判や役員を務めるので、いちいち生徒の面倒を見ることはできません。だから、先輩がしっかりしているかどうかが良い道場になるかどうか、大きな割合を占めているのです。

 学ぶということ
2016年10月24日 (月) | 編集 |
ずっと前から思っていました。指導するということは、教える側の能力もさることながら、教わる側の能力も重要だなと。
100回言ってもやらない生徒がいます。反面、1回教わっただけでものにしてしまう生徒もいます。
できないものから見れば、できる者は「あの子は頭が良いから」「器用だから」で済ましがちです。

でも、違うんです。
教わった時に、すぐできるかどうかはあまり重要ではありません。その後、それを継続してやるかどうかが問題なのです。

例えば、新しい技を教えます。ある子はすぐできるのですが、次の稽古ではまったくやりません。ある子は最初はできなくても次の稽古でもその次も忘れずにその技を使い続けます。この場合、どちらがその技をものにできたのか、言わなくてもわかりますよね。

面白いことに、あるところで接点のない方二人が同じことをおっしゃっていました。「できないのはできるまでやらないからだ。」
まさにこれだと思います。お二人とも人間として一流の方々です。
知っているだけでやらないのは知らないのと同じです。全部ものにしろとはいいません。ただ、なんとなく稽古に来てなんとなく自己流の組手をやっているだけでうまくなることはできません。
具体的な目標をもって、「こうしよう」「こうなろう」と思って稽古をすればうまくなります。

私の生徒で、毎回同じことを教わっているのに、まったくできない者がいます。言われた時はやっているのに、自由組手になるとすっかり忘れて100%自己流になっているのです。
他道場の子で、セミナーや出稽古に来て、次に来た時にはすっかりできている者もいます。

学ぶということは教わった回数ではないのです。その後自分で努力した回数が重要だと思うのです。

私が海外で生活していた時に、戦後すぐに移住して4~50年生活しているのに現地の言葉を話せない日本人がいました。自分が話そうとしないので、周囲が日本語を話せるようになってしまったんです。

私は、人間学ぼうと思わなければ学ぶことができないのだと思いました。稽古に毎週通ってきてもそこにいるだけでは上達は望めません。「学ぼう」、「覚えよう」、「使おう」と思わなければ何も上達しないのです。

それこそが、すべてに共通する「学ぶ態度」ではないかと思います。
 脱・根性論
2016年09月05日 (月) | 編集 |
「気持ちで打てるわけじゃないですからね。気持ちで打てるなら毎回打てますから。それなりのレベルの相手だったら技術で打たないとね。気持ちで打ったことは一度もないですよ」。

イチロー選手がマルチ安打を放った後のコメントです。さすがイチロー選手、コメントのいちいちが深いなぁ・・・、と感心しました。
果たして、この言葉の本当の意味を理解できる人は何人いるかな?と思いました。

思えば、過去に外国人の偉大な空手の王者のコメントで、1人として「気持ちで負けないようにしました。」「気力で勝ちました。」と言った人がいないのです。

彼らのコメントのほとんどが、「相手よりも考えた。」「頭脳ならば誰にも負けない自信がある。」等のコメントです。

井上康生監督率いる日本柔道が根性論を捨てて、リオオリンピックで成果を上げたのは記憶に新しいところです。
こういうコメントを真に理解して指導にあたりたいものです。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160905-00000038-dal-spo
 稽古の心構え
2016年06月06日 (月) | 編集 |
そろそろ、どの都道府県も、全少と全中の予選は終わる頃です。

当道場生も、一昨日ですべて予選は終わりました。毎年思うのですが、組手に関して、「この子は今回行けるかも?」「この子は難しいなぁ・・・。」等、コートに上がる前にわかってしまいます。

みんな頑張っているんです。でも、大切なのはどう頑張るかなのです。稽古中の態度で、基本でも形でも組手でも同じなのですが、まずみんなに言ったこと。これは、一般論としてみんながやらなければいけないことです。特に大切なことは、私は繰り返し、強い口調で言うことにしています。
そして、生徒一人一人へのアドバイスです。それは、その生徒がまず何よりも優先して心掛けることです。

上記2点を常に念頭に置いて稽古するのか?ただ、ひたすら必死になって稽古するのか?これで、試合の結果は大きく異なってきます。

勝つ生徒は、試合での最悪の場面を想定して稽古していますね。試合というのは、強いものが必ず勝つとは限りません。なぜならば、試合は必ず0-0から始まるからです。AがBよりも強いから5-0から始めますなんて試合はありません。
そして、戦いには流れというものがあります。勝負は、流れに乗った者が勝つのです。

ですから、試合開始早々に相手の流れであり続けることが良くあります。相手の流れの時は、ひたすら我慢です。でも、ただ我慢して防御に徹するのではなく、失点を絶対にしないように最大限の注意を払いながら攻める気持ちが必要ですね。
流れというのは、通常は20秒で変わります。相手の流れが突然ニュートラル状態になるか、いっきに自分に来ることがよくあります。
また、負傷や安全具の着け直し等の一時的な試合の中断で、流れが変わる場合など。

自分の流れになった時に、もたもたせずにポイントを取れるかどうか? ここは、集中力がものを言います。


どんなに強い選手でも、流れが相手にあることがあるし、もしくは自分の苦手なタイプの選手と対戦することがあります。「今回は、調子が良くて一方的に勝ち上がっているけれど、次の対戦相手は右構えだから、次が山だな。」なんて会話は日常的ですね。

さて、試合とは前述のように流れが勝負を左右するということから、どのように稽古に取り組むかというのがテーマです。結論を言えば、最悪のケースを想定して稽古すれば良いのです。普通にやってもダメな時に何をするか?そのパターンをしっかりと稽古しておけば、相手のタイプがどうであれ、流れがどうであれ、何とかなるのです。
自分のやりたいことだけをやっている。「この技を極めたいな」「こうやって相手に入りたいな」というのは、願望です。願望が悪いというのではありません。願望だけの稽古をするなということなのです。

自分がこうありたいと思うなら、どうすれば思い通りになるのかをまず考え、もしうまく行かなかったらどうするのかを次に考えるのです。

ここまで、想定して稽古している者は、本番に強いし、安定した成績が残せます。考えずに、ただひたすら稽古している者は、勝つ時は凄く強いが、負ける時はすごくもろいものです。

試合後の反省会で、選手にしつこいくらいに質問責めにすると、なぜ勝てなかったのか?なぜ勝てたのかがよくわかります。

やはり、原因は9割9分自分にあるということです。常に審判がどうのという人間は、永久に同じ失敗を繰り返します。なぜ、審判はあの時ポイントをくれなかったのか?なぜ、相手に有利と思われるジャッジをしたのか?なぜ、判定で相手に旗が揚がったのか?

審判にはもちろんミズジャッジはあります。でも、それを単に審判のせいにするのではなく、なぜそうなったのかを考え修正してゆけば、同様のことは起こらなくなるはずです。また、保護者は、我が子よりに試合を判断しがちです。「なんでポイントじゃないの?」という場面は良くあります。

でも、審判の目と親の目は違うということです。もちろん、指導者の目も違います。ですから、判定に疑問を持つなら、厳しい第三者の目に意見を求めることが最良の手段だと思います。

長くなってしまいました。今日の結論です。

稽古は常に最悪の事態を想定して行うこと。