気配の正体
2014年05月30日 (金) | 編集 |
数日前、ネットで面白い記事を見つけました。気配の正体に関してです。私は、この記事に大いに納得しました。要約すると次のようなものになります。

※生物が活動すると、体の周りには微弱な電気が発生し、その電気を他の生き物が肌で感じるのが『気配』。
※気配の持ち主がいなくなった後も、気配が残るのでそれを感じてしまう。
※気配を感じるセンサーは皮膚にある細かい産毛のような体毛の先端。

う~ん、まさにその通りだと思うのです。空手に当てはめた場合、気配を消すことで相手の反応は遅れます。例えば、行くぞ行くぞという素振りを見せると、技を出す前に気が飛んで相手に察知されてしまうのです。行かないぞという素振りから攻めると、面白いくらいに技が決まったりします。

私は、間を詰める時、技の出し始めは息を吸うようにしています。息を吸うことで気が飛ばなくなるからです。息を吐くとなぜ気が飛ぶかといえば、息を吐くと身体の前面の筋肉が緊張します。その緊張を相手に察知されてしまうのだと思っています。
その点、息を吸えば身体の前面は、吐く時ほど緊張しません。

この気配は電気という表現に納得いかない人も多いかと思いますが、私は逆に電気と書かれていたので納得をしました。
筋肉を動かすということは、微弱な電気が発生します。ですから、僅かな力み、体重のかけ方、顔の表情等、すべて気配に直結していると思うからです。

ブルース・リーの有名な言葉で、「Don't think,feel!」というものがあります。「考えるな、感じろ」です。
考えるということは、答えが出るまでに時間がかかります。しかし、感じることは、時間的には限りなくゼロです。

加えて、今回の記事に照らし合わせれば、考えることそれ自体、脳に微弱な電気が発生しています。感受性の高い人であれば、考えた時点で既に気配を察知してしまいます。
心を読むには、顔の表情や視線、指先の動き等、多くのチェックポイントがありますが、例えば座頭市のような盲目の人には、それは見えません。しかし、見ないからこそ見える人よりも分かるということも存在します。それが感じることです。

顔の表情は分からなくても、眼の動きを追えなくても、指先の動きが分からなくても、その時に発する微弱な電気を感じることができれば、なまじ見えているよりももっと正確に相手を知ることができるのではないかと思います。

気配を察知する方法も指導してきた私としては、この記事を読んでしてやったりの思いです。

勝負のこつはふたつしかありません。相手に反応させないか、反応させてそれを外すかです。反応させないためには気配を消せばよいし、反応させて外すには、思い切り気配を飛ばしてそれに反応させ、そこを外せば良いのです。

ところで、気配を感じるのは、産毛の先端というのも、面白いですね。空手でも、足の甲や手の甲で間合いを計っているような気がします。

でも、毛深い人が気配を感じやすいということは、私が指導している方法よりも、育毛剤を全身に塗りたくったほうが、よほど気配を感じることができるかもしれませんね。

記事元は下記のURLです。
http://matome.naver.jp/odai/2137828574427330801
スポンサーサイト
 構えと間合いが8割
2014年05月19日 (月) | 編集 |
勝負は、構えと間合いで8割方決まります。

といっても、チンプンカンプンではないかということは分かっています。でも、本当なんです。昨日(18日)某県のインターハイ予選を観てきました。
私は、試合を観ながら近くの人に解説をするので、ズットしゃべりっぱなしです。でも、話しているうちに状況が変化し、次から次に展開が代わって行き、言葉が追いつかないのが悩みです。

例えば、「勝負はじめ!」で両者が構えた瞬間に、その試合のおおまかな展開が分かります。両者の構え、間合い、リズムを見た瞬間に、両選手の動きが読めるので、以後の展開が8割方読めるのです。

また、試合の後半になれば、それまでの試合の流れから、負けている選手はこうすれば良い、勝っている選手はこうするべきだとハッキリと言うことができます。
今日思ったのは、どんな選手にでも勝てるとは言えないが、少なくとも実力に劣る選手でも互角の勝負には持って行けるということでした。

まず、構えた瞬間のチェックポイントとがあるのです。「この構えの選手はこうなると強いが、こうすると何もできない。」
技を出す前に、構えと立ち方を見ただけで、その選手の傾向が分かります。

たぶん、他人に教える時は、こういう選手はこんな傾向があるというチェックポイントを解説していますが、他人に説明せずにひとりで観ている時には、一つ一つをチェックしているのではなく、その選手の身体意識を感じているのだと思います。身体意識を感じ取ることができれば、その人がどんな動きをするのか、感覚的に一瞬でわかります。

例えば、ある選手の立ち方を見ると、相手選手の立ち位置でポイントが入るか、逆に失点するのかが分かります。ただし、両者は絶えず動いているので、どちらに有利なポジショニングを取っているかは流動的です。

典型的な例を挙げると、

ある選手と戦う時に、相手がその選手の左(背中側)に動いた時はいつもポイントを取っている。しかし、右(相手選手のへその方)に移動した時は必ず失点している。

というような感じです。また、構えも、同じ選手でも微妙に手が内側に入ったり、開いたりすることで、上段で失点するか中段で失点するか、それとも失点をしないのかが分かります。

団体戦の決勝戦で、ある選手同士の戦いの時は、ポイントの取り合いになりましたが100%どちらがとるか当たりました。それは両者の立ち位置で分かったからです。「今は赤有利だ」といえば、赤が得点、「赤やばい」と言った1秒後に青が得点という具合です。

以前もこのブログに書いたと思いますが、位置取りというのは、自分から相手までの距離、いわゆる縦の間合いだけでなく、そこから左右どちらかに数センチ動く、いわゆる横の間合いがあります。

特に、横の間合い次第で、赤青どちらのポイントになるか、9割以上の確率で当てる事が出来ます。

いずれ、こういう部分をまとめて本にできれば良いと思います。これが分かると、すべてのポイントは偶然ではなく必然であると分かるでしょう。

それにしても、高校の空手はいいですね。
選手の頑張りで、指導者や保護者、その他の応援者全員を幸せな気分にすることができます。選手は自分の頑張りで周囲を幸せにすることができるということを忘れずに頑張ってほしいと思います。
 JKFan Cup 2014
2014年05月13日 (火) | 編集 |
5月6日に愛知県瀬戸市民体育館で、JKFan Cup 2014が開催されました。ゴールデンウィーク中の大混雑にも関わらず、北は北海道から西は山口県までの13都道府県から参加していただきました。
今回は、韓国とフィリピンからも参加者がありました。

ルールは、メンホーなしで足にはWKF公認の足甲・脛サポーターを装着します。メンホーを装着しないことで組手がよりスピーディになり、ダイナミックな動きが目立ちました。

決勝を下記にアップしています。興味のある方は是非ご覧ください。今回は、電光掲示板も購入しました。オペレーションも簡単で良いですよ。ソフトは海外のサイトにアクセスし購入したものですが、やはり無理して購入して良かったです。

来年も4月末か5月初めに開催予定です。オープン大会なので、興味のある方は連絡をいただければ要項をお送りいたします。


http://www.ustream.tv/channel/jkfan-cup-karatedo-championships-2014


WKA


韓国チームと当道場の写真、みんな頑張ってくれました。



フィリピン

フィリピンチーム、大選手団を送ってくれました。



サポーター

試合に使ったサポーターを天日干し。足のサポーターは、当方ですべてのコートに揃えました。



1798535_597348683684541_1462984157_n.jpg

参加賞はこの缶バッジ、他にも抽選会にてチャンプさんから提供いただいた売れ筋のDVDとTシャツが当たりました。(特賞は、競技の達人全巻セットです。)


 ふたつの勇気
2014年05月11日 (日) | 編集 |
組手は勇気が必要です。しかし、勇気にはいつも2種類あるように思います。

まず、攻める勇気です。相手もいつでも攻撃できるように構えている中で、思い切って飛び込むには勇気がいります。もう一つは、攻めない勇気です。攻めれば負けても誉められます。でも、絶対に勝ちたい時に、攻めない方が良い場合もあります。流れが自分に来るまではじっと我慢する、引いて構え、相手が出てきた時にカウンターを狙う等で、攻めないことも作戦としてはあると思いますが、もし攻めないで負けたら、こっ酷く批難されるでしょう。それでも勝ちに徹するために攻めない。これは、思い切り良く攻めるよりももっと勇気がいることです。

前に出れない者は、まず前に出る勇気が必要です。強い相手に対し攻めることが出来ない者は、まず攻める事が必要です。
しかし、それができるようになったら、あえて前に出ない、あえて攻めないことも時には必要になるし、それこそが本当の勇気だと思うのです。

攻める勇気は、誰にでも分かる。でも、攻めない勇気は分かる人にしかわからない。だから、策が裏目に出た時は批難の嵐となる。



これと類似していますが、前に出る勇気と下がる勇気。得意な技を大事な時に出す勇気と、あえて得意な技を封印する勇気。


ここまで書いたことは、どれも後者の方がより勇気がいるものです。
 料理と空手の共通点
2014年05月05日 (月) | 編集 |
今日、韓国から来た客人を、2月にお世話になった家族が韓国レストランに招待してくれました。オーナーは韓国人ですからハングルも話します。そして、料理が来て談笑しながら韓国料理を食べました。

まず、私が

「日本の韓国料理屋の味はどうですか?特にキムチの味は?」

と訊くと、しばらくキムチを味わった後、首をかしげました。もう一人に食べてみなさいと言って、もう一人が口に入れるとやはり首をかしげます。

彼は、

「まずくはないけれど韓国の味ではない。」

と、言いました。
加えて、

「例えて言うならば、基本を疎かにして組手をやっているようなもの。」

といううまい表現をします。

スンドゥブが運ばれて来た時も、ハングルで

「これ、本当にスンドゥブなの?」

と、店員さんに尋ねます。

盛り付けも韓国とは違う。また、我々が鍋物の締めにうどんを入れるように、彼らはスンドゥブにはご飯を入れます。

ところが、その店で来たのはラーメンです。
私は、ソウルで彼に連れて行ってもらったので、

「ラーメンを入れるのは、トッポギだよね。」

と言うと、彼は

「そうだ、トッポギにはラーメン、スンドゥブにはご飯だ。」

と、しきりに今日行った店はジャパニーズスタイルのコーリャンレストランだと繰り返しました。


私は世界各国を回って、日本レストランに行くのが楽しみです。というのは、海外生活が長かった私は、別に日本食が恋しくなることはありません。逆に、日本では食べられない日本食が出ることが多いから楽しみなのです。

アメリカなどは、比較的日本と同じ味のものが出てきますが、途上国の地方のジャパニーズレストランなどは、メニューの日本語もメチャクチャ、出てくる料理の味も全然日本とは違います。だから、私などは逆にそれが面白くて日本食レストランに入るのです。ミソラーメンがシソラーメソになっていたり、メニューを見るだけで楽しくなってきます。


韓国人が経営している日本の韓国料理の店でも、韓国人に言わせれば韓国ではなくジャパニーズスタイルだということになる。これが、今回の重要なテーマです。



空手も、これと全く同じです。正しい空手をしっかりと普及しようと何度も日本に足を運び、日本人以上に日本の先生の教えを守り続ける立派な外国人の先生もいらっしゃいます。

中には、日本人が海外に永住し、その地に骨を埋める覚悟で指導されている方も多くいらっしゃいます。


しかし、今回の日本の韓国料理と同じで全く同じものを受け継いでいるつもりでも、国が違うと生活習慣や身体意識の違いから微妙に技が変わってくるものです。それは身体意識の違う中で指導をしていれば、同じことをやっているつもりでも、微妙に違いが出てきてしまうということです。

料理も空手も、国が変わっても全く変わらないということはあり得ないと思うのです。むしろ、競技として普及させたいのであれば、積極的に変わることを容認しなければ、永久に日本有利のルールしかできません。
無意識のうちに海外では技が変わってくることは、逆にいえば自分たちに合うように改良するということです。

これは、国内でもいえることです。「空手は日本の伝統文化だ。」と言っても、沖縄の人たちから見れば「でも、それは沖縄で培われ、継承されてきた手とは違います。」ということになるのではないかと思うのです。

10年以上前にJKFanの連載で書きましたが、中国から見れば、沖縄の空手は「我々の亜流だ」と思うでしょうが、沖縄から見れば、「中国拳法を沖縄の風土や生活習慣に合わせて今のように変化・発展させた」と思うでしょう。

同様に、沖縄の人から見れば、今の本土の空手は沖縄の手とは別物であると思い、本土の人から見ればそうは思わないと思います。
これの延長で、日本から見れば世界の人たちがやっているKARATEは、「もはや武道ではなくスポーツだ。」と思うでしょうが、海外の人たちからすれば武道もスポーツも空手に変わりないではないかと思うはずなのです。

沖縄⇒日本本土⇒世界と普及した空手は、前者から後者を見れば「亜流」と捉え、後者から前者を見れば、それほど亜流化したとは思っていないはずなのです。空手の発祥を沖縄であると捉えれば、本来の空手とは沖縄で行われていたものが本来の空手であり、本土の武道や生活習慣の影響を受けたものは、既に亜流化した空手であるといえるのではないでしょうか?

また、本当に本来の空手の継承を心がけるのであれば、空手は絶対に競技化すべきではなかったと思います。競技化された時点で、やる人が武道としてやっていようがスポーツとしてやっていようが、それは本来の空手とは「別物」になる運命にあるからです。

私は、二十年以上前に、インド人を日本のカレー屋さんに連れて行ったことがあります。味を訊いてみたら、

「日本のカレーは美味しい。ただ、インドではこれはカレーとは言わない。」

と言いました。

確かに、カレーはインドから直接伝わったものではなく、イギリスを経由して日本に入ってきましたから、経由した時点ですでにカレーとは名ばかりで別物になっていたのです。
別物ではあるが、おいしいかまずいかは別問題です。インド人でも日本のカレーをおいしいというのです。ただ、俺たちのカレーとは別物だよというだけです。

変わらずに継承することがどんなに難しものか? 今日の会食で改めて思いました。